折り合いの話

オリンピックの頃だったか、ボンヤリとTwitterを眺めていたら、こんなツイートが流れてきた。

折り合いなんてものは、もう1年半以上も付けられていない。

自分は基本的に家から出ない生活になり、家から出なくて済むのだから良いじゃん、という話でもあるし、家から出られなくて辛いという話でもある。世の中の飲食店は疲弊し、20時を過ぎても公然と営業を続ける店も増える。知人の中には、20時を過ぎる店をわざわざ探し当てて飲み食いべしゃりをしている人もいる。危ないじゃん、という気持ちもあるし、まあでも誰かと喋りながら飲み食いしたいよね…という気持ちもある。交友関係も中々広がりづらいし海外に行けないことにフラストレーションを感じざるを得ないし、日本での厳しい眼を免れ海外で楽しくワイワイしている人達もいる。ワクチンはありがたいことに2回打たせてもらったけれど、しかしその順番で本当に良かったの?という想いもある。オリンピックはやっぱりやらない方が良かった、しかし面白い競技は面白かった。「医療関係者に感謝を」という言葉はもはや空虚に映り、ブルーインパルスは出来損ないの円を描く。

 

現実は一人の人間が落ち着いて理解できる範囲をもはや超えていて、それでも自分の人生は1日1日と続いていくのだから、折り合いを付けるなんて面倒くさいことをしなくても良いかもしれなくて、目の前の快楽に溺れてしまうのが楽なんだろうし、目の前の快楽に溺れる人はそれはそれで良いのだと思う。だけれども、色んなことに思いを巡らせて、幾多の矛盾に頭を抱えて、折り合いを付けられなくても、それもそれで良いのではないかと思う。決して誰かを助ける力を持っていなかったとしても、色んなことに思いを巡らせ、馳せることに意味があると思うから。「折り合いなんて付けなくて良い」のではなくて「折り合いなんて付けられなくて良い」のだと。そして抑えきれられなくなった感情は、決して誰かにぶつけて傷をつけるのではなく、淡々と政治にぶつけていけばそれで良いのだと、最近の僕はそう信じるようにしながら、自分を強くするための物事を淡々と、進めている。