コメンテーターとしての未来の話

僕は昔からジェネラリストではなくスペシャリストになりたいと思っていて、
でも何のスペシャルを得たら良いのかがどうしても決めきれず、それを探るためにジェネラリストの道へ向かっていった。

大学入試でどのような学部を受験するか、大学卒業の先にどのようなキャリアを歩むかなど、その時々のタイミングで、上記のようなことを思いながら意思決定を進めていったように思う。
もちろん、広く視野を持っておくこと、幅を持っていることは非常に重要で、それで損をしたことはないし、意味もあった。

 

コロナが世の中に出始めのころに、医学の専門家が"コメンテーター"を押しのけて発信をした。

カルト宗教の話題で盛り上がっているいま、決して表に出ることは殆どなく細々と活動していた宗教の専門家が、前面に立って自らの知見を遺憾なく発揮している。中途半端な物言いをした"コメンテーター"の発言が、専門家たちによって根底から否定される場面すらある。"コメンテーター"は「訳の分からないことを言って」と批判されるのが筋だ。

 

"コメンテーター"は、実に様々な分野にそれっぽいことが言える便利屋で、どんな場でもどんなときでも重宝され、またあるスタンスが要請されればそのスタンスに応じた発言も出来る。かっこよくも見える。

だが、その分野の本物の専門家の前では勝てない。

 

いまの自分がジェネラリストであるとして、それはすなわち"コメンテーター"でもあって、「いろんなことを知っていたり話したりすることができてすごいですね」と思って頂けているのかもしれない。が、それは、ひろゆきや三浦瑠麗や橋下徹古市憲寿みたいな存在であって、その先に待つ未来は、自分が尊敬したい未来では無い。

 

そんなことを考えながら、2022年の9月が、終わる。