2011.3.10と2011.3.11の話

2011年3月10日は大学の合格発表だった。その日は晴れていた。

昼過ぎ、ソワソワした気持ちのなか、テレビを眺めていた。笑っていいともだった。芸人たちがビンゴクイズで盛り上がっていた。

突然、大学のホームページで、合格者番号のpdfが公開された。僕の番号はあった。ホッとして、家族が喜んだ。記念に、と思ってわざわざ大学の掲示板まで見に行って、去年は無かった番号が、今年はそこにあった。ホッとした。掲示板の前で待機していた週刊誌の取材を受けた。アメフト部の胴上げは断った。夜、普段何を考えているのか分からない父は、コサックダンスをしながら家に帰ってきた。

 

2011年3月11日、その日は晴れていた。

その前から弟がインフルエンザに罹っていて、リレンザを飲んでいた。異常行動を取らないように家に誰かがいないといけなかった。母は入学金を払いに外に出て、僕は弟を見張るために家にいた。のんびりとした気持ちで、パソコンを触っていた。

突然、家の外から、けたたましい音のサイレンが聞こえた。リビングにあった緊急地震速報を知らせる機器が鳴った。同時に家が揺れた。初期微動のあと、経験したことのない揺れが続いた。1分、2分、食器棚が勝手に開いた。弟を机の下に潜らせた。

テレビを付けた。地震速報は今までに見たことのない色をしていた。近所のおばさんが飛んできて「すぐにお風呂に水を貯めろ」と教えてくれた。1時間ほどして、凄い血相をしながら母が家に帰ってきた。テレビは信じられない情報を伝え始めた。若林区荒浜で数百の遺体*1気仙沼で火事。余震。緊急地震速報を知らせる機器は、タガが外れたかのようにアナウンスを続けた。大学合格の祝賀ムードは消えた。深夜には長野で揺れた。その日、家族はリビングで皆で眠った。東京にいた父は、その日は家に帰ってこれなかった。

 

次の日に福島第一原発はとんでもないことになり、計画停電が始まって、我が家は毎日数時間電気が来なくなった。朝と夕方、2回止まる日もあった。真っ暗な部屋で呆然とするしかなかった。2011年3月の予定は何もなかったので、ラジオやテレビや新聞で、そしてTwitterで、あのとき起きていたことをただただ見続けていた。浪人生で学生でもない、仕事もない、そんな身分だったから、本当に何もすることがなかったし本当に何も出来なかったので、電気がある限り、ひたすらに見続けていた。この世の中はどうなるのか、どうするのか、考えなくてはいけないのかもしれないと思った。その延長線上に、大学への入学があった。山手線は真っ暗なまま走り続けていた。

 

ボランティアに何度も行ったり、現地に何度も入ったり、なんてすごいことは出来なかったけど(今の僕はそのようなことをしてこなかったことをとても後悔している)、2011年3月11日とそこからの数ヶ月で見たものは、僕のなかで鉛のように埋め込まれ、その時点の僕を多少なりとも方向づけ、大学で学ぶことを決めさせ、今の道を歩むことを選ばせたのだと思う。

 

 

 

そこから10年が経って、僕は何が出来たのか、分からない。いや、とはいえ何かを成し遂げることは、例え10年という月日があっても難しい。でも、例え何かは出来ていなくても、あのとき抱いた世の中に対する違和感や想いを、今でも持ち続けることが出来ているのか、それをもとに動き続けることが出来ているのか。それすらも分からない。

 

今の僕は、これからの僕は、何が出来るんだろうか。

  

緊急事態宣言が明けたら、また三陸に行く。鉛の錆を取りに、そして街を見るために。

*1:後にこれは誤報と分かる