自分の言葉がどこへ行ったのか分からなくなった話

常に何かしらの制約条件と、身内の目と、受け手の目と、その向こう側にある受け手の立場を考えながら発せられた言葉のどこに、自分があるのか、分からなくなった。

ネガティブチェックが繰り返され続けたことで、否定の思考が無意識のうちに先回りし、丸みを帯びた言葉だけが、外へ出る状態になっているのだと思う。それは僕の言葉でありながら僕の言葉ではなくて、僕の言葉はがいまどこにあるのか分からない。

 

所属するコミュニティがその人のアイデンティティを形成するというけれど、所属するコミュニティやその周辺環境によって、その人の個性が消去されてしまう場合もあるよね。知らんけど。

 

 

 

21.9.17の話

  • すべての山を乗り切ったので休みにした。遅くまで寝てしまった。弱い。
  • 駅の近くの信号で信号待ちをしていたら、お姉さんに声をかけられた。人が多い街にいるときは警戒心があり(かつだいたい宗教勧誘かマルチなので)基本的に無視しているけど、住宅街にあるような駅なので全く油断してしまい、道に迷った人かと思って対応してしまった。リクルートスーツみたいな服を着た人で「研修なんです」というので、ブラック企業の新人研修か、かわいそうにと話を聞いてみたら「独身の社会人の方ですか?」と聞いてきた。どういう縛りなんだ…、と思いつつ、まあそれはそれで事実(注:僕は社会人という言い方はキライなのでいつも被雇用者と言っている)なので、ハイと答えると、ブライダル貴金属の会社のアンケートだという。こんなところで自分みたいな人にアンケートをするって、お前社会調査のイロハも何も分かっとらんやんけと思うも、ブラック企業の新人研修か、かわいそうにと思ってアンケート用紙を見てみると「結婚したい年齢」「婚約指輪はどうやって買うか、サプライズで買うか/一緒に買うか」「プロポーズはどこでするか」という設問。なんじゃそれ。あまり悩む意味は無い気がするが悩んだ挙げ句、婚約指輪は「一緒に買う」にした。僕はだいたい適当に物を買うと失敗する。まあ別に買う予定は無いのだが。意味の無い仮定なので「仮定の話にはコメントは差し控える」で逃げれば良かった。名前と電話番号も書いてくださいとお姉さんに言われ、イヤな予感がしたため名前だけで勘弁してもらおうとしたところ「電話番号もお願いします!」と言われる。下に個人情報利用承諾のチェックボックスがあったので「許可しない」にチェックを入れ、その場を離れる。
  • あとで家に帰って「ブライダル貴金属 アンケート」で検索したら、デート商法の典型手段だった。このあとお姉さんから「この間アンケートに答えてくれて嬉しかったです♪」という電話が掛かってきたら確定だったのだが、個人情報利用承諾を「許可しない」としてしまった。「許可する」にしておけば久々に面白いネタに出会えたかもしれない。残念。今日は30点。

21.9.15の話

  • 文章を書くエネルギーが続いたので、今日も書く。
  • 今日やるべきことが少なく済みそうだとなると、さっさとやるべきことを終わらせてしまえば良いのに、ダラダラと過ごしてしまう悪癖。
  • 朝から夕方までダラダラと過ごしてしまうと、そのままに夜までダラダラと過ごしてしまう悪癖。
  • 心がモヤモヤしてダラダラと過ごしてしまったときに、積読していた哲学書を引っ張り出して、ザッと読む。まだ一日に救いが出る。下味冷凍してた鶏むね肉のプルコギ風がまあまあ美味しかったから、それと合わせて今日は55点。

21.09.14の話

  • それなりの文章を毎日書くべきと駆られる瞬間があり、まず今日書く。
  • Twitterをやっていると「何を言ってもウケる瞬間」と「何を言っても全くウケない瞬間」があり、バイオリズムのようなものがあるのが常だったのだが、もう最近は「何を言っても全くウケない」。
  • 「何を言ってもウケる」ときは、日頃の人生で「言いたくなるような何か」に溢れていて(と今の僕は昔のことをそう述懐していて)、言えば言うだけ新しい何かがあったけど、いまは「言いたくなるような何か」はほとんどなくて(もしくは言ってはいけなくて)、それはそれで切ない話だし、「思った何か」は積み重なっていくが、それは140字制限には適さない。
  • 健康に気をつけようと思って健康に気をつけた食事ばかり取っていたけど(鶏むね肉ばっかり食べてた)、不健康なものを食べてこそ人間なのだとムシャクシャした。不健康なものを食べたいがばかりに今日は家を飛び出し、わざわざ電車に乗って壁も扉も真っ白な一人個室に入り、しょうもない作業を黙々とこなし、お昼になったら一目散に街に駆け出し、本当はミシュランにも載ったというカツカレーを食べたかったのだけど行列が凄まじく、仕方が無いので隣のお店の鴨ロースそばを食べ、おやつ時になったら雨が降るなか傘も刺さずにご贔屓のお菓子屋さんに行ってケーキを買い、皿が無かったのでわざわざ紙皿をファミリーマートで買い、フォークが無かったので無料のコーヒースペースに置いてあるマドラーを拝借し、美味しくケーキを食べた。
  • 英単語覚えてシャドーイングして例文暗記して論文も1本読んだから、一応今日は80点。

 

折り合いの話

オリンピックの頃だったか、ボンヤリとTwitterを眺めていたら、こんなツイートが流れてきた。

折り合いなんてものは、もう1年半以上も付けられていない。

自分は基本的に家から出ない生活になり、家から出なくて済むのだから良いじゃん、という話でもあるし、家から出られなくて辛いという話でもある。世の中の飲食店は疲弊し、20時を過ぎても公然と営業を続ける店も増える。知人の中には、20時を過ぎる店をわざわざ探し当てて飲み食いべしゃりをしている人もいる。危ないじゃん、という気持ちもあるし、まあでも誰かと喋りながら飲み食いしたいよね…という気持ちもある。交友関係も中々広がりづらいし海外に行けないことにフラストレーションを感じざるを得ないし、日本での厳しい眼を免れ海外で楽しくワイワイしている人達もいる。ワクチンはありがたいことに2回打たせてもらったけれど、しかしその順番で本当に良かったの?という想いもある。オリンピックはやっぱりやらない方が良かった、しかし面白い競技は面白かった。「医療関係者に感謝を」という言葉はもはや空虚に映り、ブルーインパルスは出来損ないの円を描く。

 

現実は一人の人間が落ち着いて理解できる範囲をもはや超えていて、それでも自分の人生は1日1日と続いていくのだから、折り合いを付けるなんて面倒くさいことをしなくても良いかもしれなくて、目の前の快楽に溺れてしまうのが楽なんだろうし、目の前の快楽に溺れる人はそれはそれで良いのだと思う。だけれども、色んなことに思いを巡らせて、幾多の矛盾に頭を抱えて、折り合いを付けられなくても、それもそれで良いのではないかと思う。決して誰かを助ける力を持っていなかったとしても、色んなことに思いを巡らせ、馳せることに意味があると思うから。「折り合いなんて付けなくて良い」のではなくて「折り合いなんて付けられなくて良い」のだと。そして抑えきれられなくなった感情は、決して誰かにぶつけて傷をつけるのではなく、淡々と政治にぶつけていけばそれで良いのだと、最近の僕はそう信じるようにしながら、自分を強くするための物事を淡々と、進めている。

2011.3.10と2011.3.11の話

2011年3月10日は大学の合格発表だった。その日は晴れていた。

昼過ぎ、ソワソワした気持ちのなか、テレビを眺めていた。笑っていいともだった。芸人たちがビンゴクイズで盛り上がっていた。

突然、大学のホームページで、合格者番号のpdfが公開された。僕の番号はあった。ホッとして、家族が喜んだ。記念に、と思ってわざわざ大学の掲示板まで見に行って、去年は無かった番号が、今年はそこにあった。ホッとした。掲示板の前で待機していた週刊誌の取材を受けた。アメフト部の胴上げは断った。夜、普段何を考えているのか分からない父は、コサックダンスをしながら家に帰ってきた。

 

2011年3月11日、その日は晴れていた。

その前から弟がインフルエンザに罹っていて、リレンザを飲んでいた。異常行動を取らないように家に誰かがいないといけなかった。母は入学金を払いに外に出て、僕は弟を見張るために家にいた。のんびりとした気持ちで、パソコンを触っていた。

突然、家の外から、けたたましい音のサイレンが聞こえた。リビングにあった緊急地震速報を知らせる機器が鳴った。同時に家が揺れた。初期微動のあと、経験したことのない揺れが続いた。1分、2分、食器棚が勝手に開いた。弟を机の下に潜らせた。

テレビを付けた。地震速報は今までに見たことのない色をしていた。近所のおばさんが飛んできて「すぐにお風呂に水を貯めろ」と教えてくれた。1時間ほどして、凄い血相をしながら母が家に帰ってきた。テレビは信じられない情報を伝え始めた。若林区荒浜で数百の遺体*1気仙沼で火事。余震。緊急地震速報を知らせる機器は、タガが外れたかのようにアナウンスを続けた。大学合格の祝賀ムードは消えた。深夜には長野で揺れた。その日、家族はリビングで皆で眠った。東京にいた父は、その日は家に帰ってこれなかった。

 

次の日に福島第一原発はとんでもないことになり、計画停電が始まって、我が家は毎日数時間電気が来なくなった。朝と夕方、2回止まる日もあった。真っ暗な部屋で呆然とするしかなかった。2011年3月の予定は何もなかったので、ラジオやテレビや新聞で、そしてTwitterで、あのとき起きていたことをただただ見続けていた。浪人生で学生でもない、仕事もない、そんな身分だったから、本当に何もすることがなかったし本当に何も出来なかったので、電気がある限り、ひたすらに見続けていた。この世の中はどうなるのか、どうするのか、考えなくてはいけないのかもしれないと思った。その延長線上に、大学への入学があった。山手線は真っ暗なまま走り続けていた。

 

ボランティアに何度も行ったり、現地に何度も入ったり、なんてすごいことは出来なかったけど(今の僕はそのようなことをしてこなかったことをとても後悔している)、2011年3月11日とそこからの数ヶ月で見たものは、僕のなかで鉛のように埋め込まれ、その時点の僕を多少なりとも方向づけ、大学で学ぶことを決めさせ、今の道を歩むことを選ばせたのだと思う。

 

 

 

そこから10年が経って、僕は何が出来たのか、分からない。いや、とはいえ何かを成し遂げることは、例え10年という月日があっても難しい。でも、例え何かは出来ていなくても、あのとき抱いた世の中に対する違和感や想いを、今でも持ち続けることが出来ているのか、それをもとに動き続けることが出来ているのか。それすらも分からない。

 

今の僕は、これからの僕は、何が出来るんだろうか。

  

緊急事態宣言が明けたら、また三陸に行く。鉛の錆を取りに、そして街を見るために。

*1:後にこれは誤報と分かる

2021.2.2の話

僕はくだらない意地を張るときがあって、「仕事がツライ、長時間でツライ」みたいなよくある被雇用者あるあるを出来るだけ口にしないということがその一つとしてある。子どものときに見たつまらない大人に、自分もなりたくなかったからなのだと思う。(ちなみに大学を卒業して企業に就いた人のことを一般に社会人と言うけれど、企業に就かない人も社会人なのだから、あくまで「被雇用者」と言っている。これもくだらない意地なのだと思う)

ただ最近はあまりにもツラく、もう流石にやってられなくなってきた。そろそろその意地を張るのはやめようと思う。日頃の負荷量とプレッシャーが重く、自分の中の感情を自然に吐き出さない限り、そろそろ毛が逆立ってしまう。

 

2月になってもう一度深呼吸をして、したい勉強が出来る体制を取った。とにかく無理なく、それでいて継続できるように。

2月1日、2月2日、まだ継続中。今週1週間続けば、自分を褒められる。少しずつ、少しずつ…。